有限会社パンズ

黒ヒョウ社長のブログ

宮城県・南三陸町へ

2011-08-23 23:35

8月19日の深夜バスで4年生の娘と南三陸町に向かいました。大型バス2台、63人のツアーで主催はNPO法人地球元気村。「がれきの学校」というタイトルで親子参加可能(子供は小学生以上)だったので、”待ってました!”と7月に申し込みをしました。新宿から片道8時間なので体力的には疲れはしましたが、TVで見ているだけでなく、目の前に広がる現実を自分たちの眼で見て、生き残った方々のお話を直接聞いて、1人1人が考える。そういうことが体験できたことは大人にとっても子供にとっても一生忘れることのない体験でした。

宿泊したホテル観洋は1500人くらいが泊まれる大型ホテルで、この地域では唯一ここしか宿泊ができません。そしてまだ家を流されてしまった500人位の方々がここで寝泊まりしています。地震から早5ヶ月が経つけれどまだ仮住宅の見通しも立たない人がたくさんいるんだという現実を眼の辺りにしました。みなさん左胸には部屋番号と名前が書かれたバッジを付けていました。

 

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土曜日の朝ホテルに到着して朝食後にまず向かったところは、小学校。2億円かけて完成、竣工式をした10日後に、一瞬で津波で破壊されてしまった体育館も目の前にありました。この小学校は卒業式の練習中に津波がやってきたそうです。荒れ果てた小学校をみて子供達はどう感じたでしょうか。避難が遅れた理由として、海と小学校の間にたくさん家が建っていたため、波が見えなかったそうです。

 

 

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次に向かった先は市内でした。そこには全国放送で何度もテレビに映って有名になったH鋼しか残っていない防災対策庁舎や、多くの患者さんが亡くなった志津川病院がありました。防災対策庁舎2Fで最後まで震える声で避難を呼びかけて無くなった遠藤未希さんのお話などを、ご自身も被災した佐藤さんお聞きしました。佐藤さんは写真館を経営されていたので子供達の避難先になった高台の小学校屋上から、海になった街を写真に収めていたそうです。この辺りの地面はわずか5分で海底15メートルになってしまったとのこと。津波のすごさを目の前の景色と合わせて聞くことで本当にその恐ろしさが理解できました。

 

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 04-04-0823.jpgランチの後は長塩谷地区に移動して、地区の方々の避難の手助けをした佐々木さんからどのように避難して、避難後どのように生活していたか?をお聞きしました。海の方をみると当初河だったところは完全に海に変わってしまい、かすかに陸のようなものが見え隠れしている状態で、津波前の景色を想像することは不可能でした。かろうじて使えた1本のホースからの水道水で、約100人が食器を洗い洗濯をしたそうです。生活飲用水を沢山積んだ市の車が来たのはなんと6月になってから。3-5月の3ヶ月間は近所の旅館に備蓄してあった水しかなかったそうで、水の次に困ったのが乳児用のほ乳瓶がないこと、だったそうです。

04-03-0823.jpgここで子供達は花の種を植え、大人達はがれきの撤去をしました。 土のなかから大きなTV、電線、ガラス、陶器、洋服、紙類などいろいろなものが出てきました。問題なのはこれらがれきを捨てる場所がなく、どうすればよいのかわからない、という事です。路を挟んだ反対側にはこの辺り一帯でまとめられた車のスクラップが積み重なっており、どうやって処理していくのか?は本当に大きな問題です。

05-0823.jpgホテルに戻りお風呂に入り夕食後には全員でゲストを交えてミーティングでした。地震直後から取材を続け、今はホテル観洋に泊まりながら取材を続ける新聞記者の三浦さんからのお話は、子供達にとってかなりインパクトのあるショッキングな話だったようです。普通の学校には様々な理由で行くことができなかったフリースクールに通う3名の子供も壇上で3/11日に起こったことを話してくれました。彼らは普段から海に潜り、魚を釣り、という自然学習の中で育ってきていたので、潮が引いた瞬間にすぐに津波が来ると判断し、お米や水を2階にあげるなどの機転を利かせたそうです。そして流されながら助けを求める重傷女性を助け、5日間子供達だけで生き延びたそうです。雪が降り寒かったのでガソリンは近くで転覆している船から、食料は海から。この「たくましい生きる力」の実体験を聞いてきっと東京から参加した多くの子供は何か

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